さて、旅日記の続編
前回の切通しを抜けると・・・
「スパッ」
路盤完全流出・・・
ここは獣道を頼りに頑張って進みます。
進みますと・・・
この路線唯一のトンネルが姿を現しました。
「瀬戸峡」と名の付いた極めて切り立った峡谷の岩山を貫いていました。
・・・反対側でも土砂崩れが起きており、残念ながら閉塞&湛水しています。
トンネルが通れないので、このまま進むと峡谷の中腹を歩く・・・という事になるのですが、とても無理!
なので直上を通る林道へ逃避!
・・・地図読みでは50mほど直登したようです。
生きている林道へ「生還」
写真がヘタクソですが、この岩山の中をトンネルが通っていました。
林道から見下ろす瀬戸峡
眼下の緑色の木の生えているあたりがトンネル反対側出口付近ですが、完全に埋まっているようです。
対岸もかなりの断崖です。
林道にはおなじみのレールで作られたガードレールが見られました。
そして、トンネルを抜ければ見事なアーチ橋があるはず、と見下ろすと・・・
ありました!
林鉄にしてはかなり立派です、前後もコンクリート製の桟橋?になっています。
しかし!降りられない!!
・・・林道に登っている途中から予感はあったのですがw
林道からこのアーチ橋へアプローチすることは不可能のようです。
戸草ダム調査用の足場が以前はあったようですが、現在は何もありません。
撤収!
林道からの接近は無理なので、戸草へ撤退。
時間もあるし・・・と河原を瀬戸峡方面へ向かいました。
幸い河床は堆積が多く、比較的平らになっていて安全に進めました。
が、トンネルの真下付近で渡渉が必要な場所があり(と言っても深さは20cmもありませんが)、氷点下ではちょっと危険なのでこれまた断念。
・・・写真奥のカーブの先にはアーチ橋があると思われます。
行くなら夏にしましょう・・・という事で今回の探検は終了です。
最後に、美和ダム管理所にて旧版の地形図が閲覧可能でしたので、今回の旅の答え合わせを。
森林鉄道が描かれた地形図は昭和27年の応修版。
実線の片側に棒が書いてある線が浦森林鉄道です。
やはり私が集落跡と見た場所は「奥浦」集落だったようです。車を止めたのが集落最上部、道を間違えたのは下の方のようです。
・・・想像以上に人家があり、桑畑や田んぼまであります。
「前浦」は現在の「浦」集落
浦分校が浦集落の一番奥に立地しているのはもちろん用地の関係もありましょうが、学校より奥から通う子供たちもあった事の証しなのでしょう。
「小瀬戸峡」には林鉄の橋が。これがアーチ橋です。
トンネルは書かれていませんが、あの断崖はトンネル無しで通過は考えにくいので、遺漏と思われます。
「小瀬戸峡」がいつの間にか「瀬戸峡」になっているのも面白い所。
「戸草」にはやはり橋が描かれています。
「戸草」「塩平」「割芝」といった集落の子供たちはこの橋を渡って学校へ通ったのでしょうか?
こうして古い地形図を見ると、今では無人と化した山奥の大勢の人達の暮らしが見えてきます。
海外産の木材と、やはり海の向こうからやってくる石油によって、これらの集落からは人が出ていきました。
三六災が引導を渡したのは確かでしょうが、既にそこに暮らし続ける利点が無かったのでしょう。
ここにいた人たちはどこへ行ったのか?
そんな事は分かりませんが、石垣だけがそこでの暮らしを伝えていました。
※今回探索した土地は県有林・国有林です。落石や野生動物など危険が多いので、万一真似して生じた結果については責任を負いかねます。
無理せず、迷惑かけず、自己責任で・・・